公教育が人間を選別し続けた成れの果て

私を含め今現在存命の日本で生まれ育った人は自然な共生社会の人口比率で生きた経験がほぼないだろう

障害者、病人(被看護者)、被介護者、性的マイノリティ……

家族という数人の小さな集団では多様性はあまりないが

人間は多様で、これらの人々は特殊な存在ではない

人間の中に必ず一定の割合で含まれる存在であり

個々が当たり前に持つ個性上記の状態にはない、健常者で既往症もなく健康で何においてもマジョリティに属する人など一握り、いや一時のこと

誰もが病人や被介護者になり得るし、他国に行けば外国人になる

現代の日本社会は人が生まれた瞬間から段階的に区別を繰り返す

義務教育を終える頃、私達は完全に選別されている

社会に出ても病気になれば集団を追い出され、障害者になれば元の集団に戻ることも困難になる

自由権、中でも経済的自由に属する転居・移転の自由、職業選択の自由は保障されているようで真に自由とは言えない

 

以下はそれが良いか悪いかではなく、事実として考えて欲しい

 

産後

先天性疾患があるかどうかが人生初の岐路だ

重度の看護や介護が必要なら家庭内だけで支えるのは難しい場合もあるため

家庭という集団に身体的に常時所属することができないかもしれない

 

幼稚園・保育園入園時

入園できるのは健常児か支援を受ければ健常児と共に生活できる幼児

クラスは先生1~2人で最大限見られる人数の集団で形成されていて

その中で生活しにくい幼児は入園できず家族の中や通常保育とは別の保育を受ける

私達は入園時には既に健常者か障害者かで大きく分断されている

もうこの時点でそれぞれ見える景色が変わっている

 

小学校就学時

今度は知能や体の特徴で学校や学級を区別される

各人の個性に合った教育を受けられる制度だが

就学児の知能や体の特徴で区別する方法だけは個人の成長や変動に対応できない

今の公教育は、同じような個性の人を集めて面倒を見ることで効率を良くしようという方法だ

例えば目が不自由な人だけを一か所に集めれば同じ施設同じ教職員で済むだろう

しかし、一人一人の視点で考えれば特殊な環境で育っていることになる

同時に一つの個性のために同じ場所に縛り付けておくことにもなる

産まれてからずっと特殊な環境にいた人が社会に出る時

初めて自分と大きく個性の異なる人の中に入ることになり、それで苦労しない人などいないだろう

 

中学校入学時

学力が平均値より下回る人、個人にもよるが2~3学年以上の遅れのある人は知的遅滞として支援学級という選択肢がある

それまでに選別が進んだ集団の中で毎日の授業についていけない状況は非常に辛いものだ

小学校6年間で徐々に心的ストレスが積み重なっていて

この機に恥やストレスのない集団または個人独立の道へと考える人も多い

 

そして中学卒業時

最終段階とばかりに偏差値と家庭の経済状況、2つの要素でバッサリと選別される

偏差値とお金、どちらの条件も揃って初めて本当に自由な選択ができる仕組みだ

偏差値や才能がいくら高くても貧困層は公費の援助で賄える範囲での進学になるし

偏差値がどうであろうと家に十分なお金があれば国内でも外国でも進学できるし、或いは進学も就職もしなくていい

 

大学進学や就職時は家庭の経済状況にまともに影響を受ける

住みたい場所、生きたい居場所を真に自由に選んだと言える人がどれくらいいるだろう?

 

このように区別を繰り返し選別されていく日本公教育では

大部分を占める中間層とて常に安心しているとは限らない

少しの自分の状態の変化でも

「自分はこのグループにいていいのか」「自分は異常かもしれない」と

葛藤が生まれ、不安定な状態に置かれてしまう

そして思春期に近づくにつれて徐々に自分と違う個性を持った人や集団の中で目を引く存在、意見や方法が違う人などが気になり始める

その気になりだした相手が不安定な状態にある自分にとって何らかの脅威と感じた時

その人をどうにかしようという意識が生まれる

これが”いじめ”という名がついた公然と行われ続けている犯罪の起点だと思う

 

これが自然な共生社会ならどうだろう?

どの人も生を受けた状態で区別されることなく同じ空間で生きられたなら

当たり前にいろいろな個性の人がいて、当たり前に助け合う心と技能が身に付いていて

他人への意識は競争相手ではなく協力者という意味合いが主になるだろう

それほどうまくはいかないと思うが

少なくとも現在の選別型よりは生涯自分の身にどんなことがあろうとも安心していられるのではないだろうか

病気になったら、障害者になったら、年を取ったら、少数派だということがバレたら、いつかはじき出されてしまう……

そんな不安や恐怖を常に抱えながら送る今の偏った社会の暮らしは

自覚の程度の差はあれど生きづらさをみんなに与えている

健常者主体の社会の方がラク、その方が自分を発揮できると思う人もいるかもしれない

今の偏った社会の中で注目されていることは本当に凄いことなのか

それらはまやかしなのではないだろうかと私は時々疑問に思う

オリンピック選手とパラリンピックの選手ではどちらが凄いのか?

ノーベル賞受賞者とオリンピック金メダリストではどちらが凄いのか?

これらに答えはない

個々で、その時々で、生育環境で、観点は無数にあって比較できないのだから

今の個性の偏った社会の中でいくら称賛されても、一番になっても

他に違う個性の人がいて、違う集団がいて、違う国の人がいて

競うベースを整えること自体が無理なことだし

小さな括りの中で誰が凄い、正しいと競うことは結局のところそれほど大きな意味ではないのかもしれない

私達に与えられた個性は競うためではなく、協力して生きるためにあると考えた方が断然生きやすくなる

人間は一人では生きられない

一人で水を汲み、野菜を育て、狩りをして、生地を作り衣服を作り、木を切り家を造り、病気になったら診断して薬を調合して手術をして……

そんなことをできるわけがない

社会全体で個性、長所、好み、体質などを発揮し合っているからこそ、私達は生きていられるのだ

障害者には健常者を支えることができない?

毎日食べているお米や野菜を収穫したのは障害を持った人かもしれないし

落ち込んだ時に読んだ本は病気を抱えながら書いている作家かもしれないし

感激した映画は何らかの少数派が演じているかもしれない

今コロナ禍で世界を支えている医療従事者の中には、障害者も病人もマイノリティもいる

どんな個性を持っていようが、いや、個性が違うからこそ私達は生きやすくなるのだ

本来の共生社会に近づけば私達はもっともっと助け合い、社会ができることも広がり

個々の生きづらさも軽減していくことができると思う

 

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