マジョリティに潜む危険

ここ数日考えていたのはマジョリティについて

 

生まれたら必ず死ぬと私達は知っている

だから、自分の存在が消える時が来ることを常にどこかで意識している

だからこそ、危機管理ができるわけで

危機を回避するためには一人でいては危ないので集団の中に入ろうとする

より大きな集団の方が攻守共に有利だし弱い自覚がある人ほどその中で紛れたいと思う

つまり、多数派・マジョリティに身を置きたいと思うのは当然のことだ

 

ではマジョリティとは何か

それはカテゴリーや見方によって違って無数にある

非常にぼんやりとした集団だ

自分がマジョリティに入れているのか確実な確証は何もない

誰もがある方向から見ればマジョリティだし

またある方向から見ればマイノリティだ

 

仮にマジョリティに自分が身を置いたとしても

自分の生存に関する”不安感”は完全に拭い去ることはできない

つまり、どこまでいっても不安感とは共存しなければならないのだ

 

マジョリティに身を置きたいと思う一方で

人間は自分という唯一無二の存在を認められたい

紛れたいのに目立ちたい

相反する願いを並行して叶えようとしている

 

誰もが持っている不安感から自分だけは逃れようと

マジョリティを追い求め

マジョリティを正解と錯覚し

マジョリティの中にいる人が言いそうなことを言う

意識的であれ無意識的であれ、こういうことを皆やっている

 

芸能人というのはその最たるもので

大勢の人気と支持を得てマジョリティの先頭に立ち

同時に自分の人格や才能を特別視してもらおうとしている

芸能の始まりは民衆や下層者の代弁者的要素が強かったのだろうが

現代は全員とは言わないが真逆のものとなっているように思う

 

テレビの中やSNSの中の世界は

マジョリティに強くこだわっている人の表現の場

自分はマイノリティだと主張していても

マジョリティにこだわっているから主張するのだし

得体の知れないマジョリティの強さを感じているから主張している

私もその中の一人なんだと思う

 

マジョリティに身を置こうと

マジョリティに反抗しようと

結局は自分の存在に対する不安感は大して変わらない

死という結末は変わらないのだから

 

実質問題として

その時々でマジョリティの枠を探しその中に身を隠せば

危険をかわせるかもしれない

しかし、マジョリティを隠れ蓑にし過ぎると

自分の個性を押し殺してしまう

身の安全を第一に考えるならばそれでいいかもしれないが

幸せや幸福感を得たいと考えれば自ずとマジョリティが足枷になる

マジョリティと実態の差異が自分の首を絞める

 

マジョリティの中を彷徨い続けていると

自動的に自分個人より亡霊的な多数派に意見を寄せてしまい

そのうち自分の意見を持つことを放棄してしまう

本人達は自覚していないかもしれないが

考えることを諦めている人を私は数多く見てきた

そういう人達は共通して責任感が著しく欠如している

 

何か問題や衝突が起きた時

「みんながやっているから自分もしただけ」

「自分だけではないのになぜ自分が責任を取らなければならないのか」

「責任者は自分ではない」と

必ず言い出す

 

それはまさしく

自分の頭で考えずにマジョリティに合わせて無責任に行動した結果であり

マジョリティに扮した人間であった証拠そのものなのに

 

マジョリティに無条件に自分を合わせることは

実は自分の身を危険に晒しているということなのだ

 

今、暴露系YouTuberが話題だが、

暴露によってマジョリティから弾き出された芸能人はその顕著な例だと思う

上手くマジョリティに扮しマジョリティの先頭で商品として扱われてきたけど

実態は思考停止状態で罪を犯したり人権を無視した行動を繰り返したりしていて

問題の対処や責任から逃れようとする

理想的なマジョリティの象徴とはかけ離れた人物だったということだろう

 

そうでなければ

自分の確固たる意志を持って行動してきたのならば

正々堂々と説明し、今後も何の後ろめたさもなく生きていくことだろう

 

 

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